溜息集積場 出張所

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「ゴジラ-1.0」所感。

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一つ前の記事に書いた通り見てきました。1回見た時点でのかなりざっくりした所感です。

最初に書いておくと、管理人山崎作品って幸か不幸かろくに見ていなくて、寄生獣をTV放送時に断片的に、あとは「ジュブナイル」のBS放送ぐらいです。
作品ごとの評価に激烈な差があるタイプの作家なんだな……(ほぼ同時期に公開した作品間ですら天と地ほどの差がある)というのを外から見ていた程度で、それでもゴジラ映画を1本そのまま担当するのって(ジュブナイルの内容を踏まえたとしても)どうなんだろう?と正直疑問に思うのが先に立っていたんですが(そのへん、明確には書いてないながらもちょっと漏れてるのが

accumlater.hatenablog.com

この記事だったりもします)、それがいい意味で裏切られる、えらく真面目で、その方向性も大きく間違えていない映画だったと感じます。今管理人の右手は機龍(改)のスパイラルクロウ並にギュインギュイン回転している(それ一周回って元に戻ってくるんじゃないか?)

以下、内容に言及するため格納します。普通にネタバレもする。
あとパンフ一応買ったのですが、まだ一部しか読めていないため、記載内容と食い違う内容や、逆にすでに明言されている内容を推測として書いている可能性があります。ご承知おきください。

格納分としてまず最初に書いておきたいのですが、管理人見た限りのゴジラ映画(国内国外問わず)の中ではKOMがぶっちぎりに好きなタイプの人間です。前提としてそういう観客であることをご承知の上お読みください。
なんでこれを先に書くかって、近作だけでもシン・モンスターバース/その中でもギャレス版か髑髏島かKOMかコングか/・怪獣惑星シリーズ・SP・ちびゴジラのどれが好きかでその人がゴジラ(ひいては怪獣映画)に求めてるものって全然変わるので……。ちなみにこの中で言うと人に勧めやすいのって髑髏島(ゴジラ出てこないけど)だよなと思っていたんですが、マイナスワンはそれと同等ぐらいになった気がします。

さて本題。まず今作見た時に真っ先に思ったのは、「変なことをしてない」作品だという印象でした。
事前に公開されていた「太平洋戦争終了から間を置かず、復興もままならない時代にゴジラが現れる」というあらすじと、ゴジラのビジュアルおよび基本設定から想像・説明可能な範疇の中で、全部話がまとまっている。一歩も「逸脱」しないんですよ。
比較するようで申し訳なくもありますが、わかりやすく言えばシン・ゴジラにおける第二形態や第三形態、背鰭からぶっ飛んでくる多角放射熱線や、KOMにおけるゴジラモスラの関係、SPにおけるアクアティリスのような、「正気か!?」と身を乗り出すような、映画館で初めて知る情報はほとんどない。これらのサプライズって、大型作品になればなるほど見せ場として生きてくるものだと思うんですよ。でもそれをしなかった。ゴジラの自己再生能力などに関しても、あそこまで精細に描写されたことこそありませんが、これまでのシリーズから考えれば腰を抜かすほどとんでもない描写というわけではありません。
(ちなみに、本来は震電が「それ」だったのかもしれませんが、実は管理人2日目鑑賞だったのもあってちょっと見えてしまっていた部分があり……) 
なのにしっかり面白い。それは控えめながらもギミックを組み込まれたゴジラの放射熱線しかり、ゴジラ撃退というただでさえ困難極まる作戦において、あくまで物理的に地に足のついた(少なくともそう思わせる)立案しかり、それらに説得力を持たせる、神木くんをはじめとしたキャスト陣の名演・さらにそれを成立させる美術や撮影スタッフの手腕しかりと、漠然とした表現になりますが「画を作るためにやるべきこと」をきっちりやりきっているから、ではないかなと感じた部分です。
これも半ば比較を伴ってしまいますが、シンの時に意識的に削ぎ落とされていたもの・「シン・ゴジラ」という映画としてはそれで正しかった要素を、今作では手をかけて成立させることで、「ここまで丁寧にやらなくては画として満足いくものにならない」という、一種の相互補完、あるいは検算のような関係になっているようにも思えました。

個人的に目が行ったところ1つ目。破壊と死に対する描写の徹底性。シンでは意図的に削ぎ落とした(落とさざるを得なかった)要素の一つでもありますね。
最大の見せ場である銀座ではもちろんのこと、山村にゴジラが現れるシーンにおいても、とにかく徹底的に「逃げ惑う人々」「ただ歩くだけでそれを蹂躙する生物」という、ゴジラの基本としてあるべき動きを執念をもって描かれていたのが印象的でした。人が多い銀座は当たり前として、山村で家を壊すというともすれば地味に見えかねないシーンであっても、しつこいほどに「まだ生きて逃げている人」が、ゴジラがただ歩くだけで壊れた家の瓦礫に潰される。その恐ろしさを徹底して描くことで、本作におけるゴジラがどういう存在かを否応なしに観客に叩き込んでくる。そういう容赦のなさを感じられる描写でした。
(ちなみに当時の銀座の再現には再現チームのとんでもない労力がかかっているそうです。その甲斐ある場面でした)
先日ブレーザーガヴァドン回があり、あの時SSSS.GRIDMAN第10話「崩・壊」を改めて見ていたところに、「人の都合なんて考えない」「ただいるだけで、歩くだけで人の日常を・命を奪い去るもの」としての怪獣のプリミティブな姿を、シンで避けた・避けざるを得なかった分を補うほどに徹底して描いてきたことに震えました。あえて言うと、国会議事堂を粉砕するカットが明確にはなかった(射線的に考えるとふっ飛んでいるとみるべきでしょうけど)のが少し残念だったかなというぐらいです。
あと、アカネさんこれから有楽町の会期の半分ぐらい急に抜け出してても文句言えないなこれは……ともちょっと思った。有楽町なんてところを会場にするから……。

個人的に目が行ったところ2つ目。「引き金」の意味合い。
本作主人公である敷島青年は、非常に大雑把にいって「引き金を引くことができなかった」ことが(正直「あんな状況では引けなくて当然である」という状況に2回も追い込まれたことで)心に刺さり続けて逃げられなくなっている存在です。それが劇中で繰り返しモチーフとして扱われ、また敷島以外の人物も実質的に同じ意味合いの選択が迫られることが複数回起こり、そして物語上一つの見せ場において、野田さんは戦時下の兵器についての思いを吐露する。その中で感じたのは「生き残るために引く」と「命と引き換えに引く」ことに明確に断絶を起こさせているな、というところ。
ゴジラというあまりにも未知な存在に対しどう行動するのが正解なのか、作中の誰も分かるわけがありません。個人が生き残るというだけの視点で見た時、何もしないのが正解であることすら時にはある、ということを冒頭で残酷なまでに示している。それでももし立ち向かうこと、引き金を引くことが必要になるなら、それは生き残るためであるべきだ……ということを、説明しすぎず/さりとて全く語らないわけでもない按配で見せていたのではないかと。
もっというとこれ、怪獣惑星シリーズのハルオの最期の選択なんかも絡められる気がするんですが、そこはもっとゴジラシリーズに熱心な方がやってくださると……信じて!!(投げやがった)

個人的に目が……というより、耳が行ったところ3つ目。冒頭に貼った通り、今回贅沢にも国内トップ環境という池袋のIMAXGTで見てきたんですが、とかく増設されまくったスピーカーのおかげでものすごく音がいいんですよ。様々な音響、SEについておそらく最もよく捉えられる環境になっています。それだけに、「あの場面」で一切の音が消える、あの莫大な空間に「静寂」が落ちる場面が、客席の皆さんの協力も相まって激烈に効きました。
……というわけで、音響がいい方の映画館で見た方がいい映画ではあるんですが、今回GTのシアターに行ってみて、正直自分の求めてるレベルは成田にあるIMAXでも十分だったかもな、という感覚もありました。地元の映画館に金を落としておくべきだった、というのもありますが、内容が割と重たい上に画面も音響も豪勢すぎて正直めちゃめちゃ疲れた……。4DXscreenとかも余力があったら試したいんですが、しばらくはいいかなあ……という思いがしています。しっかり作られているからこそ、連続で浴びられる内容ではない。

大きくはこんな部分でしょうか。事前のインタビュー等で山崎監督が「本編と特撮の流れを分断したくない」と言われていた通り、本編の分量が正直かなり大きいんですが/もちろん本作はそれで正解というのが前提になる上で/その本編、人間同士の関係性が、対ゴジラという巨大な課題に対してきっちり有機的に繋がっているので、自分のような観客でもそれがマイナスにならなかった、というのは成功だったんじゃないかと感じています。野田さんと橘と澄子さんがいいよね……。ラスト、少し都合が良すぎるように思わせて不穏な形で終わらせることで、シンの時よりもより「この後のこの世界の話が見たい」と感じるようになっていたことに自分でも少し驚きました。典子さんの痣、単なる放射線障害であるならばあんな蠢き方はしない(そもそも敷島青年にもあっておかしくないことになるし)ので、まさかのここからG細胞系の話になってくれないかとちょっと期待しています(※この管理人はモンスターバースシリーズでもサイボーグ化したエマ博士に再登場してほしいとずっと言っているタイプの観客です)
劇中で大きく触れられたものではないかと感じますが、本作のゴジラは製作開始当初全く構想になかった、Covid-19、正確には感染症蔓延下での社会機能不全を下敷きにすることを避けられなくなったと言われています。「その時代の困難」を表すものとしてゴジラが現れる、ゴジラ映画が作られるというのは見慣れた形ですが、今年のはじめにTVシリーズを締め、劇場版も公開した、近年継続して怪獣を描き続けているウルトラシリーズの準最新作・ウルトラマンデッカーでもまた同じ事象を下敷きにしていた、双方ともにそれをびしりと描き切っていたというのは非常に意義深い関係なのではないかなと。

本当は海の表現(なんかもうCGチームの若手がとんでもないカットをバカスカあげてきてデータ量が凄まじかったらしく、その甲斐あったとんでもない映像ばかりになっています)とか、今作のゴジラの立ち位置(圧倒的な脅威でありながら、冒頭でのサイズが控えめであることから原水爆実験により圧倒的な力を『持ってしまった』こと、その責任を米軍が取らないこと、打倒する他に人類に生き延びる術がない哀しさなど)とか、1954年より前にゴジラが日本本土に上陸している点とか、もうちょっと書くべきことがあるように思いますが、単純に管理人のリソースがこの辺で限界……。

今年って、公式非公式問わずとにかくゴジラの息吹を感じる映像や作品をいくつも見ることになっていて、特にグリッドマンユニバースにおいて「自分では何も用意することのできない・模倣現象の実体化」であるマッドオリジンの最終形態が「破壊者」であるゴジラに行き着くところ(マッドバーニッシュも混ざってるのでここまで単純化できないんですが……)と、短編アニメーションとして制作されたちびゴジラの逆襲が、パブリックイメージとしてのゴジラや各怪獣の要素を守りながら・異様に豪華な声優陣によるキレを伴って・しょうもないコメディ短編(最上級の褒め言葉)を毎週見せてくれていたのが非常に印象的であり、BDとともに上田さんと鬼頭さんによるモスラの歌フルバージョンの配信を今か今かと待っている状況なのですが。もうSSSS.名義でいいから出しちゃえよ(ダメだよ)
そんな年に公開されることになった本シリーズであるゴジラ映画が、こうも真面目で直球な内容だったのはとても嬉しい事象だと感じます。「シン」ゴジラ、ひいては日本における怪獣シリーズを活性化させる『劇薬』であったとすれば、そこから怪獣惑星シリーズやSPを間に挟んで現れた「-1.0」は、ゴジラというシリーズが復活した『宣言』と言っていいのではないかとすら。揶揄を一切抜きでゴジ泣きさせられるとは思わなかった……。
と同時に、これはかなり行儀の悪い見方になりますが、庵野秀明山崎貴と、「今めちゃめちゃ難しいゴジラ新作をよりによってこの人たちに任せていいのか……?」と、正直鑑賞前は若干ならず思っていた2巨頭が出してきたのがこの2作ということになってしまったせいで、逆説的に初報の時点で「この人だったら大丈夫でしょ!!」という方々(具体的に1人挙げると田口清隆監督)が担当されることに理不尽に一抹の不安というか、緊張感が漂うようになってしまったのが若干怖いので、なんかこう……パラダイムシフトが起きて欲しいという思いもあり、そういう面でも上で貼った記事の通り、「大丈夫なのか!?」と「大丈夫でしょ!!」が重ね合わせで存在している新海誠監督に、やっぱりゴジラ一回作ってもらえないかな……という思いがだいぶ強まっています。真面目に。

管理人、今年のマイフェイバリットはグリユニでほぼ確定なんですが(あと大番狂わせが起きる可能性があるのは鬼太郎誕生ぐらい)それだけに「『グリッドマン ユニバース』という映画が公開された同年、現れたゴジラ映画がこれほど誠実な内容だった」と言えることにすごく安心感を覚えます。ここまで見ていただいた方々はすでにご鑑賞の上でしょうが、ゴジラ映画が売れると管理人のような人たちは色んな形で潤うので、楽しんでいただけたならぜひそれを広めていただければなあ……と思います(突然の私欲!!)
そしてブレーザーともども東宝と円谷、新条アカネさんへの報酬がめちゃめちゃ手厚いな……」という印象がより強くなった。マイナスワン、大まかな制作スタートが2019年の3月らしいので、時期としても奇跡的に噛み合うんですよね。4年越しの報酬の仕込みの成果として最上のものでした。何の話だ。
余力が生まれるまでの間4DXscreen上映をまだやっていてほしいぜ。それでは。