溜息集積場 出張所

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「少年泉鏡花の明治奇談録」所感。


購入報告からずいぶん経過してしまいましたが読了したのでざっくり感想。
そこそこ出遅れてるのと、前提として書いとくべき話があるので本題はそんなに長くはないです。
以下、内容に言及するので格納。

前提・鏡花作品について

……読めてなくてですね……。
峰守作品として金沢を舞台にした先行シリーズであるくらがり堂、舞台探訪をするほどには好きで、その作品の中にも鏡花フリークの祐という少年がいた以上、絶対読んだ方がいいと思いながら全然手を出さずにここまで来てしまっておりまして。
ついでに書くと金沢行った時、鏡花記念館も休館中で見れず、高校時代に著作を扱った授業等もなく……というところで、くらがり堂での言及を除くと多分グレーテルのかまどで扱われたのを見たぐらいなんじゃないかという程度です。あ、帝都FCにもあったか。
何を言いたいかというと、各話副題として取り扱われている作品はもちろん、おそらくそれ以外にも仕込まれている人物名や舞台設定なんかには気付けていない可能性がかなり高いというところで……。今回の最終幕で明かされるある人物の名前がある作品で鏡花自信を投影された人物になっている……というのは半分事故的にたどり着いたりしたのですが。
今回読み進めている最中、夜叉ヶ池だけは該当回の前に読んでみたんですが、なるほどこういう形で再配置されたんだと感じる組み立て方でした。残り4作+2作も他作も読まねば。

以下本題。

何がそれを別けるのか

あらすじに関しては公式サイトや各ECサイトに記載のあるものでいいかな、各登場人物の魅力も主には先行して読まれてる方が言及されてるしなということで。
自分が主に触れたいと感じたのは、この作品における境界線の置き方。

この物語において主人公の一方を務める、いずれ泉鏡花として知られることになる少年・鏡太郎は、怪異なるものの噂を聞き、確かめ、それが本当に人智を超えたものなのか知りたがる人物として描かれ、もう一方の主人公である義信が聞いた噂がその発端となる、という類型で基本進んでいきます。
ここで印象的なのが、物語の中盤から登場する「山の民」、山中での生活を選んだ集団(その代表)との関わりの中で、詳細こそ伏せますが、現代の視点で見てもいやもう半分以上怪異と見做してよいのでは!?というほどの特殊な技術体系や体質を持ち合わせているのを目の当たりにしてなお、鏡太郎自身はそれはあくまでも彼らが積み重ねてきた技術によるものであって真たる怪ではないと評する。作中で言及されている通り、怪異に対して「実在してほしい」と願いながら、一方で山の民の人々もまた「ただ生き方・紡ぎ方が違うだけの人々である」と判断する。
そしてもう一つ、「夜叉ヶ池」の章で、義信の方は鏡太郎のある行動に対して、「かつてならばできたかもしれないが今の自分にはできないもの」として、憧憬とも称賛とも、若干の自罰とも取れる印象、「あの少年は自分とは違う行動を取れる」と評する。果たして彼自身が思うほど本当に違うのか、というのはこの1冊を読み切れば見えてくることですが、「歳を重ねてしまうこと(大人になること、と単純には書きたくない)」によってできなくなっていく嫌さがこと近年の自分には身につまされるもので、かなり突き刺された一節でした。

(余談。冒頭書いた通り管理人は夜叉ヶ池の章のみ原典を先に読んだのですが、その際強く印象に残ったのは夫妻に詰め寄る村人に対して学円が次々と自分との共通点を挙げ、同じ道のよしみで落ち着いてくれぬかと頼む場面でした。「目の前の誰かと同じであること」を説得の一助として使った学円がこの場面での義信に重なっている……と評するのは、流石に自説を押しすぎかなあとも思いますが)
この2箇所のみを挙げて断言するのはいささか暴論である気もしながら、怪異、妖怪、ありえないもの……という鏡太郎の望んでいるものを語るにあたって、だからこそ境界線があまりにも人の側に寄っていてはいけない、どれほど遠いように見えても理解できる範疇にあるものを「怪」であるとみなすべきではないという意識の下で語られた物語だったのでは、というのがまず書き残したいところです。
絶対城から続く「妖怪の(基本)いない世界観」に対する峰守作品らしい視点もその印象の一助になっていたのではないかなと。

以下雑感

・峰守作品における「怪奇に対して詳しい美少年(美青年)」「朴訥で戦闘能力は高いがそれを望んでいない偉丈夫」の組み合わせ、定番だなあと感じたんですけど実のところそこまで数多いわけではないんですよね。S20に始まりばけもの奇譚と今作ぐらい(あとは変化球として帝都FCと怪談アイドルか)のはずなので、自覚以上に先行2作の印象が強いんだろうか。
・クライマックスにおける卯辰山の使われ方、おそらく当時よりははるかに整備された現代、金沢に到着して3時間で「これこのまま遭難するんじゃねえかな……」と思わされた身としてはちゃめちゃ実感がありました。都市部が目視で見えるような場所で遭難するんじゃないよ失礼だろ。
・山姫様が予想通りにスゲー良いのですが(魎子さんとか勇美姉さんとか大好きマン)彼女の系統のキャラの最初ってもしかしてほうかごのアルマになるのだろうか……と近日特に思っていたりします。まあアルマも好きだったもんな。
・「暗がり坂近くの古道具屋」にどうしても反応してしまうのは計算通りとして、とはいえあの店がそのまま「あそこ」だとすると物語の前提が崩れてしまいかねないので、多分ブレーザー総集編のナビゲートキャラがTVクルーとか、もっと遡るとコスモスやマックスの劇中にKCBというテレビ局があったり、Xの劇中にらくだ便が出てきたりするぐらいの意味合いだろうと思っています。急に本ブログの内容を押してきたな。

冒頭書いた通りざっくりなのですが今回はこんなところで。ピュアフルでのシリーズは継続されることが多いので、続刊読めたら嬉しいと考えています。よろしくお願いします。